Contextの有無

ミャンマー中部Letpadanでの学生らと治安部隊とのにらみ合いは10日、大規模な衝突に発展した。先日書いた通りに、思ったより早くなったようだ。

Shocking images, videos emerge from brutal student crackdown in Burma(Asian Correspondent、2015年3月10日)

100人以上が連行され、数十人がけがをしたということだから、日本のメディアも無視できなかったのだろう、読売は11日付朝刊国際面バンコク発で「ミャンマーデモ 学生ら140人拘束」とベタ、朝日も同じくヤンゴン発で「デモの学生ら127人拘束」と短信で伝えた。読売はレトパダン、朝日はレッパダンと表記に揺れが見られるのも、この地名をほとんど初めて伝えたことを示している。

読売記事は短すぎて、起きたことを伝えるのみ。朝日はなぜ学生らがデモを行ったかの背景が辛うじて分かる程度。毎日は伝えず。これを見て分かるのは、日本に直接関係なければ「100人」程度が関係しないと、日本の新聞には載らないということだ。

ところが、地理的にはもっと離れているはずのWashington Postはたとえばこういう記事を書いている。

Here’s why students in Burma are taking to the streets(2015年3月10日)

学生らが、どんな要求を掲げて、どういう団体を組織して、なぜ運動を行っているのか、そして中にいる人物がどんな発言をしているのか、ミャンマーのこれまでの歴史に照らせばどういう意味があるのか、ミャンマーの今後の情勢にどのような影響を与えるのか。この衝突とその意味を知るために必須の事柄について、簡潔明瞭に書いている。

別にアメリカの新聞が日本の新聞より優れていると言いたいわけではない。ただ、さすがに世界を動かすアメリカの首都の新聞だと思うだけだ。日本の首都にある新聞たちが内容面で大きく見劣りするのは、アメリカと日本の立ち位置が世界の中で違うのと、記事を書くことに対する「ジャーナリスト」の姿勢や新聞社内の価値観が違うと思うしかない。

「衝突が起きました、死者が出ました、拘束者は100人以上です」という事実のみを伝えることが、新聞の得意分野でも求められている機能でもない。それでも短文記事をちぎっては投げ、ちぎっては投げする新聞は、新聞の本質からますます離れていくだけに過ぎない。

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