取材すべきもの

LINEで送る
Pocket
LinkedIn にシェア

以前書いた通り、ミャンマーの学生らが新教育法に反対して行進を行っている。それを取材していたスペインの30歳代のフリー・フォトジャーナリスト2人が国外追放された。

Foreign Journalists Deported After Covering Student Protests(Irrawaddy、2015年2月16日)

まあ、ツーリスト・ビザで入って取材活動していたことでの追放だから、脇が甘すぎるのは確か。学生たちと接触してすぐ次の日に拘束されていることから、学生側に当局への内通者がいた可能性はある。

そして感じる疑問。この2人がやろうとしたように、学生の行進を取材しようとする日本人はいないのか。

「何がニュースか」は、人や組織、国によっても当然違う。私の場合、日本の新聞が報じる「ニュース」のほとんどは、私にとってのニュースではない。すでに数時間前に知っている出来事を、何の付加価値もなく改めて「新しい情報」の体裁で伝えられても驚きも衝撃もないというのが一点。表層の事象にばかり追われて、その底流を流れる変化を伝えないのがもう一点。そして、変化や挑戦をしないというのが最後の点。

だから、人によって「何がニュースか」が違う点は承知しているが、あれほどシリアに行くという日本人はいるのに、どうしてミャンマーの学生行進を伝えるためにミャンマーに行く日本人はいないのだろうか。

これまでも、戦争や紛争といった一種の狂気と究極の非日常の中で、勇名を轟かせようとしたジャーナリストは、ロバート・キャパは言うに及ばず、ベトナム戦争にも湾岸戦争にもいた。シリアに行って「有名になろう」「スクープをとろう」という人がいてもおかしくはない。しかし、地味には見えるが、20年以上圧政に苦しんだアジアの国で、やっと若者が「やりたいこと」「してほしいこと」を訴えるために声を上げ始めたという点に、どうして日本人の自称ジャーナリストたちは共感も取材もしないのだろう。

「何を取材すべきか」。この国のジャーナリズムにかかわる人たちがズレまくっている気がしてならない。

LINEで送る
Pocket
LinkedIn にシェア

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です