「Charlie Hebdo」(シャルリー・エブド)紙の襲撃事件

1月10日未明時点で、フランスの政治週刊紙「シャルリー・エブド」を襲撃した兄弟が射殺され、この事件単体では決着を見たようだ。

「気に入らない」から実弾で襲撃するという事件といえば、朝日新聞阪神支局の襲撃事件(1987年5月3日)を想起するが、今回は犠牲者も12人にのぼり、ニュースでは「フランスの過去数十年で最悪のテロ事件」という枕詞がついている。

テレビでは銃撃の際の犯人の映像を繰り返し、街中で銃を構えて警戒する警官らの姿を流す。NHKは大越アナまでがパリに飛び、物々しい警戒態勢や市民の声を拾う。新聞は映像を流せない分、逆に言えば映像に頼らないでいい分、原因や背景や影響を腰を据えて報じるべきなのだが、「表現の自由への脅威」だけを生半可に繰り返すだけ。

そもそも、「シャルリー・エブド」とは何なのか。その情報がどの新聞、テレビでも薄すぎる。これを知らなければ、この新聞がなぜ襲われたのかも知り得ないのに。

かつてならマスメディアが報じなければ、一般人にはそれを知る術もほとんどなかった。換言すれば、マスメディアはその「情報格差」「情報量の偏り」を利用して商売していたとも言える。しかし今はインターネットがある。少しだけ踏み込んで調べれば、遠くで発生した事件を自分の思考の体操に使うことができる。

ではまずWikipediaから。こんな時は日本語版でなく英語版で。

Charlie Hebdo, French for Weekly Charlie, is a French satirical weekly newspaper, featuring cartoons, reports, polemics, and jokes. Irreverent and stridently non-conformist in tone, the publication is strongly anti-racist[3] and left-wing, publishing articles on the extreme right, Catholicism, Islam, Judaism, politics, culture, etc.

ざっと訳すと、エブドというのはフランス語の「週刊」に当たる言葉を縮めたものというから、紙名は「週刊チャーリー」といったところか。風刺が主体で、漫画やレポート、ジョークなどを載せているという。基本路線は(意外に)人種差別に反対し、左翼。極右やカトリック、イスラム、ユダヤ教、政治、文化について記事を載せている。

フランス左翼ということは、いってみれば知識人階級を代表するような路線で、しかも風刺が主体だから結構、エリート臭が鼻につくような感じであることは予想できる。部数は4万5000。フランスを代表する日刊紙ル・モンドが33万部とのことなので、つまり、フランス国内での影響力はそんなにないということも可能だ。

しかし、これだけ読んでもなぜ攻撃されたかはよく分からない。ではGoogle画像検索で「Charlie Hebdo」とやってみる。すると、ざっと見て裸の人物を描いた漫画が多いことや、時には人間の排泄物までも堂々とでかでかと載せていることも分かる。

そもそもイスラム教は偶像崇拝を禁止している、従って預言者ムハンマド(モハメッド)や神を人物として描いたり彫ったり、ましてやそれを崇拝したりすることはダメとされている、と習った。具象より抽象を重んじるからこそ、モスクの装飾もアラビア文字を意匠化したものや細密画が発達した、とも。美術館に行っても、キリストやマリアの絵画・彫刻はあっても、イスラムに関する人物のものは見たことがないのはそういうことだからと了解してきた。

そういうイスラム教を信じる人から見れば、シャルリー・エブドは、ムハンマドの人物像を描いた時点で、信仰の中枢に対する大きな冒涜を犯したということになる。さらにそれが裸になっていたり、弱虫とされていたりすれば、そりゃ怒るだろう。ウェブメディアのgawker.comもシャルリー・エブドの風刺画を批判的に掲載している。2012年の風刺画なんて、お下劣そのもの。しかも次号を100万部、通常の20倍刷るというのだから、今回の事件をきっちり商売にしようという魂胆も見える。

今回の襲撃を日本の状況にたとえていえば、根拠のない妄想を膨らませてそれらしく扇情的に書いて売る三流週刊誌が、怒ったヤクザに襲われたようなものか。

ただマスメディアの情報の受け手として困ったことに、どの新聞もテレビも、こんなお下劣な漫画を紙面や電波にのせることができない。だから、ニュースの消費者は、なぜこの新聞が襲われたのかいまいちピンとこないままになってしまう。そうすると、「12人も死んでかわいそう」とか「やっぱりイスラム過激派は怖い」とか、そんなありきたりの感想しか持てなくなる。

銃撃兄弟はだから、もちろん12人も殺害したという点で、言論に言論で対抗しなかったという点で、射殺され抗弁することもなくなったという点で、現代民主主義の下では断罪されてしかるべきなのだが、一方で、シャルリー・エブドが「表現の自由」の名の下で、自らと違う価値観を持つ人たちの心情に果たして十分配慮していたかのかという疑問も残る。彼らが敵視していたであろうものは、「人種差別反対」ということを信じれば、イスラム教ではなく、イスラムの過激派であったはずで、大多数の穏健イスラム教とではなく、ごく少数の、今回の兄弟のような武力でしか解決方法を知らない集団であったはずだ。

それなのに、穏健な人たちをも憤慨させる漫画を反省もなく書き続け、こうした事態に至らしめたシャルリー・エブドには、フランスならではの「フランス中心主義」や、思い上がり、傲慢さはなかったのだろうか。

自由を主張するなら、義務も果たさなければならない。自由を一方的に主張するところには、何らかの意図を感じてしまう。

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