Neglected ongoing stories

もしかすると今後、ニュースに頻出する地名となるかもしれないレットパダン(Letpadan)。ミャンマーのヤンゴン北西約130キロにある小さな町だ。ここからニュースを報じた日本メディアはまだないようだが、海外メディアは精力的に発信している。

Myanmar student protest in Day 3(AFP、2015年3月3日)

新しい教育法に反対する学生たちのデモ行進が、ヤンゴンを目前にしてこのレットパダンで足止めされ、治安当局と膠着状態に陥っているとの記事だ。

そして業を煮やした治安当局が、学生たちの排除に乗り出し、6日にはAPのカメラマンがその模様をとらえた。

Myanmar police chase down students in 3rd protest crackdown(AP、2015年3月6日)

もちろん通信社は一般的に、起きている事象を断片だけ次々に投げるのが仕事といえば仕事だ。新聞やテレビにはできない芸当とも言える。また、APやAFPといっても、実際にこのデモや学生排除を取材しているのは欧米からやってきた記者ではなく、ミャンマー人の記者や助手であって、だから取材しやすいという事情もあるかもしれない。

ただ、ミャンマー人助手を雇っているのは何も海外通信社ばかりではない。日本の通信社、日本の新聞、日本のテレビも当然雇っているし、おそらく現地からはそうしたミャンマー人助手らによる記事やレポート、情報が日本のメディアにも送られてはきているはずだ。

ではなぜ日本メディアはこの学生の動きを無視し続けているのだろう。考えられるのは以下の点。

  1. 日本人が死んだわけでもなく、日本との関係がほとんどない
  2. 死者が出たわけでもなく、現状は単なる局地的なデモ対治安当局の揉め事にすぎない
  3. 世界的な著名人が何か行動を起こしたわけでもなく、ローカルな話題にすぎない

だから逆にいえば、日本のメディアは日本人が死んだり関係したりすると、どんなささいな事件であっても極端に大騒ぎする。死者が出ると、不謹慎なぐらい取材を殺到させる。著名人が発言するとそれをお墨付きとして今その事件が起きたかのように報じる。

日本のメディアは、あるきっかけがあったときの瞬発力はあるのだが、それはほとんどの場合、「瞬間発火」でしかなく、その熱やエネルギーは長続きしない。それが日本という国の国民性であったとしても、その国民性をメディアがよしとする理由は何もない。太平洋戦争や東日本大震災を風化させてはならないとはメディアでよく言説ではあるけれど、何かあれば「風化させてはならない」と言い続けるのはあまりに工夫が足りないし、では実際に「風化させない」ための記事をどれだけ書いているかといえば疑問でもある。

それよりは、地味に見えてもある国にとっては地殻変動になりうる事象を根気よく拾ったり、中長期的な目で見てきっと何かの転換点になりうると自分が判断した出来事を掘り起こしたりしたほうが、どれだけ価値のある内容になるだろうか。

とかく上司に阿って上司が求める記事を上手に察して書いたり、「ジジイごろし」だけがうまくて気に入られたり、情報処理能力が高くて器用だったりすれば、日本のメディア内での階段は登っていけるだろう。

しかしそうして産み出された記事に、社会的そして歴史的な意味がどれほどあるのだろうか。そしてそんな記事しか書けない仕事にどんな意味があるのだろうか。

レットパダン発の記事を日本のメディアでどこが、そしてだれが一番初めに書くか。そこに今、最も注目している。

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