日本の新聞の報道力低下が著しい。
これはなにも、「マスゴミ」とか「記者クラブ依存」とかいう話ではない。
新聞のまったくの基本機能である「事実の記録」をしようという意思を感じないのだ。
たとえば、23日、タイの元首相バンハーンが死去した。
これを伝える各紙の見出しと字数はこうだ。
- 読売 バンハーン・シラパアチャ氏(タイ元首相)死去 110字
- 朝日 元タイ首相バンハーン・シンラパアーチャーさん死去 190字
- 毎日 (共同電)
- 産経 元タイ首相、バンハーン氏死去 83歳 157字
- 共同 バンハーン元首相が死去 83歳 243字
- 時事 バンハーン元タイ首相死去 240字
ざっと見て分かるのは、速報主体の通信社が2社とも240字超なのに、読売、朝日、産経は200字未満であり、読売に至っては共同・時事の半分以下だということ。
単純比較できないことは承知で、これをたとえばAPと比べてみる。
APの見出しは、「Thai powerbroker dies at 83」で、3522字。これを全角相当とすると半分の1761字。原文の単語数は551。つまり、共同・時事の倍以上。字数だけなら朝日・産経の10倍となる。しかも写真4枚。
量があれば、記述できる要素も増える。日本語で最も長かった共同記事の要素は以下の通り。
- 1997年アジア通貨危機につながるタイ経済不振を招いたと批判された
- 23日、バンコクの病院で死去。83歳
- タイメディアが伝えた
- ぜんそくで入院
- 32年、中部スパンブリ生まれ。76年、下院議員初当選
- 95年、首相就任。汚職疑惑や利益誘導型政治で批判された
- 96年、議会解散したが総選挙で敗北
これをAPはどう報じているか。
- 地方政治で大きな力をふるった
- 首相在任は16か月、スキャンダルまみれ
- 23日早朝にバンコクのシリラート病院で死去。83歳。21日にぜんそくの発作を起こし入院していた
- 利益誘導型政治家の典型とみられていた
- 地元はスパンブリ。稲作地帯。将来性豊かな地域とみられている
- 地元への影響力の大きさから、スパンブリを「バンハーンブリ」と呼ぶひともいる
- 国政では失態が続いた。汚職と、経済政策の失策を批判された
- 後者は特に1997年アジア経済危機の引き金となった
- 中国系商人の家に生まれ、高等教育は受けず、建設業を営んだ。60年代、ベトナム戦争特需によって生まれた建設ブームにより、億万長者となった。チャータイ党(国民党)に入党、76年に国会議員となり、92年に党首
- 同様の地域政党と組んで95年に首相。それ以外でも40年にわたり様々な閣僚ポストを歴任した
- 軍需産業や銀行免許にからんで賄賂を受けたとたびたび批判され、銀行からは30億ドル以上をまきあげたと責められた。能力のない取り巻きを閣僚にしたり国営企業の幹部につけたりした。反汚職を掲げる人を解雇し、中央銀行を政争の具にし、土地の収奪や不法伐採、報道抑圧、政治改革の妨害などを行った
- 社会批評家のスラック氏は「バンハーンは偉大な地域政治家だった。ただ残念ながら、そうした資質は首相に求められるものではなかった」と評した
- 彼はその金権政治から「歩くATM」とも呼ばれた。また、政局に応じてうまくわたり歩いたため、「うなぎ」とも呼ばれた。さらに「20%の男」というあだ名は若いころに政府関連の契約でその割合を懐にいれたためとされるが、彼はずっとこの疑惑を否定していた
- 彼の政治的頂点は、プミポン国王即位50周年を祝い、諸外国の賓客をもてなしたときだった
共同電が悪いわけではない。最低限、本当に最低限の事実は伝えている。しかし読んで「なるほど」とか「へぇ」と思うことはない。タイ政治においてバンハーンの占める比重を知らない人から見れば、元首相が亡くなったということ以上に何の読後感も残さない。
しかしAP電はどうだろうか。個人的には、バンハーンブリや歩くATM、うなぎ、20%の男などというキーワードがちりばめられて興味深い。しかもスラック氏に語らせるなど、よくタイ政治のことが分かっている記者が書いているという感が満載だ。いつもは舌鋒鋭いスラック氏がバンハーンを地方政治家としては評価しているということを知っただけでも、AP電を読んだ価値がある。
共同電(とそれ以下の各社記事)は、AP電の「97年危機の引き金になった」までを要約しただけだ。
1秒でも早い速報を競う通信社に比べれば、新聞は、時間的制約が緩く、網羅的に関連情報を盛り込むのが特長だったはず。また、記事の長さ・見出しの大きさが、ニュース価値を端的に表せるということも利点だったはずだ。
ところが新聞各紙が紙面でのフォントの大きさを競い合ったころから、どうやらこの状況は根源的に変化している。
フォントを大きくするということは、読者層が高齢化するなかでは「読みやすい」という評価につながり、言ってみればユーザ・ファーストの姿勢ではあるのだろう。
しかし反面、単位面積(つまり各面)当たりの情報量は当然ながら減る。これまで400行は入っていた紙面に、350行しか入らなくなる。すると、1面あたりの記事数も減り、1記事あたりの行数も減る。かつては第1面に記事5本は入っていたのが、今では3本が常態化している。この欠点を補うためにはページ数を増やすしかないが、ページ数を増やせば紙代、印刷代、運送費が余計にかかるとともに、そこにはたいてい広告を入れなければならない。このご時世、新聞広告を出そうという広告主がページ数が増えるように増える時代ではない。
記事の本数が減るとどうなるか。従来なら載せていた記事が載せられなくなる。たとえ載ったにしても行数=字数が減ればどうなるか。これまでは入れていた要素を削らなければならなくなる。換言すれば、読者に伝えるべきニュース、伝えるべき事実が伝わらなくなる。「フォントの拡大」という読者目線でサービスを競い合った結果、読者の不利益がかえって大きくなるとは何とも皮肉な話だ。
より本質的には、本数減・字数減で、詳細な事実背景や歴史的経緯、余分には見えてもそのニュースの面白さが際立つ細部を報じることができなくなる。毎朝届く新聞には、ニュースの概要が簡潔に記されているだけ。「あれ、この程度ならテレビやヤフーでちらっと見たな」。中には前日話題になっても収容されていないニュースもある。「あれ、あのニュース、載っていないんだな」
日々のこんな小さな違和感が積み重なると、「新聞いらない」につながる。
従来ならここで話は止まる。しかし今はネット時代だ。紙面にスペースの限りがあるのであれば、面的な制限のないデジタルでこそより深い記事を提供できるはずだ。
しかし新聞各社は、紙面同等の記事すらデジタルで出そうとしない。デジタルは「ただ見」文化だから、デジタルでは見せないとする記事を設定したり、紙面記事を短縮してデジタルで見せたりと、つまりはデジタルを紙面の「縮小版」として扱っている。
時に「イマーシブ」コンテンツや「リッチ」コンテンツをウェブだけで展開することもあるが、それはあくまであだ花。メインの「記事」ではない。
ビジネス面はともかく、記事の面から言えば、通信社が配信する行数・本数とも豊富な記事の「劣化版」が現在の新聞紙面となっている。そのさらに「劣悪版」が各社サイトだ。
ここで発想を転換すればどうか。紙にスペースの制約があるのだから、むしろ制約のないデジタルは新聞のAR(Augumented Reality)であると割り切って、そこで長文記事を見せ、逐次ウェブで公開した情報を1日2回の時間軸でまとめ、整理し、要約するのが新聞紙面である、という観点に立てばどうか。
新聞社がこっちに舵を切れないのは、それほどまでに現在の新聞事業はおいしいからだ。一方で購読料を取りながら、他方で広告料も取れるビジネスはない。テレビであれば、NHKや民放が視聴料を取りながら広告も入れているようなものだ。だから新聞各紙はウェブで広告を入れながら、有料会員モデルを追求しようとしている。
ただしこの「二重取り」が成立するのは、情報メディアとしてその量、質、存在感が圧倒的だというユーザの暗黙の同意があってこそ成り立つ。かつての新聞はそうだった。現代で課金制の成功例として挙がる米紙ニューヨーク・タイムズや英紙フィナンシャル・タイムズは、英語という世界デファクト言語のメディアであり、質量ともに兼ね備える(と多くが同意しうる)からであって、前述の通り質・量ともに他メディアを圧倒しているとはとても言えない日本の新聞メディアに同じことは望みえないだろう。
文字メディアの中での劣悪版である「新聞」を、月々3000~4000円出して購読してもらうには、「新聞は社会人(もしくは就職活動の学生など何でもよいが)なら読むべきだ」という共同幻想がなければならない。しかし一方でそんな共同幻想が剥落しているうえ、他方でその数千円を節約せざるを得ない人たちがいる。つまり、コストパフォーマンスが極めて悪い商品と思われているのだ。
これを乗り越えるためには、現状のコンテンツ(記事)を維持したいなら購読料(コスト)を下げる、購読料を維持したいならコンテンツ(パフォーマンス)を増やすかしか原理的にはない。
しかし前者は「二重取り」のうまみを知っている現経営層は踏み切れそうにない。現状のうまみをただで下げることになるからだ。後者はこれまで論じたようにこれまた現経営層にやれることでもない。「ただ見せ」させるほどウチの記事は安くないよ、というわけだ。
この二元論の間では、おそらく決して結論は出ず、従ってこのまま死に向かって緩やかに時間稼ぎするしかない。であれば、ここで新聞の役割に立ち返り、止揚するしかない。つまり、「報じること」を突き詰めるということだ。
それが先に述べた「ARとしてのサイト」「定時要約としての新聞」だ。溜められれば資源ごみとして捨てられる新聞と違い、デジタルは圧倒的な積み重ねが容易になる利点もある。検索性や個別最適化も紙よりずっと効率的だ。逆に言えば、デジタルで要約性や整頓は、優先順位が低い。代わりに、「あそこにいけば必ず見つかる」というサイトにすれば、ユーザは勝手に検索し、勝手に情報を見つける。便所の落書きのような玉石混淆の一般のネットではなく、信頼性にまだ担保価値はありそうな新聞社サイトがそうした豊饒の海になれば、多くの支持を受けられるだろう。
蛇足ながらもう一つ。Amazonの「被災地ほしい物リスト」のような、錯綜した被災現場でのニーズを吸い上げ、整理し、他者とつなげる作業は、本来的には商業サイトではなくメディアの役割のはずだ。影響を受けた地元メディアは無理としても、読者を日本中に持つ全国紙こそ、その役割を負えたはずだ。
世界中で発生しているニュースをピックアップし、その価値を分かりやすく提示する。それはどんな時代になっても変わらない「メディア」の役割のはずだ。そこを忘れたメディアがすたれ、変化し続ける市場ニーズにこたえようとするメディアが残る、そんなある意味単純な図式があるだけだ。