少数者の悲哀

先日、「ミャンマー、ロヒンギャに国民投票への投票権を認める」(2015年2月4日)と書いた時に無理があると感じていたことだったが、案の定、

Myanmar revokes Rohingya voting rights after protests(BBC、2015年2月11日)

ということになった。このBBC記事は珍しく断片的すぎて前後関係も分かりづらい。時系列でよくわかるのが、

Myanmar gives Rohingya voting rights, backtracks immediately(CNN、2015年2月12日)

これによると、

  1. 2月10日にロヒンギャなど市民権を得ていない住民に発行されている「ホワイト・カード」所持者にも国民投票で投票できることを認めた法律が成立
  2. 翌11日、ヤンゴンなどで仏僧らによる同法反対デモが起きた
  3. 11日夜、大統領府が声明を発表。ホワイト・カードは3月末で期限切れとなるとした。つまり国民投票が行われる時点ではホワイト・カードは効力がなく、結果的に投票権もないことになる

ロヒンギャたちはわずか1日、はかない夢を見ただけに終わった。国連はロヒンギャにも市民権を得られる方途を与えるようミャンマー政府に求めているが、おそらく今回のabout-face(回れ右、急展開)が覆ることはないだろう。

ある意味、こんなにも劇的な動きなのに、これまた報じた日本メディアが皆無。ISISがらみでイスラムが注目を浴びている中というのに、だ。

 


反ロヒンギャのデモを主導しているのが仏僧という点に若干の違和感を持った人がもしいたら、

Saffron Terror: an audience with Burma’s ‘Buddhist Bin Laden’ Ashin Wirathu(GQ、2015年2月号)

を紹介しておこう。仏教版ビン・ラディンとも呼ばれるアシン・ウィラトゥを詳しく報じている。ファッションやグルメ、ゴシップといったくだらない内容ばかりが目立つ日本の雑誌には決して書けない骨太のリポート。もちろん、時間と字数の制限に追いまくられている日本の新聞でもなかなか書けない内容となっている。

消費者が軽薄だからそれに迎合する軽薄なメディアしか存在しなくなるのか、安直なメディアしかないから安直な消費者しか育たなくなるのか、鶏と卵の論争となってしまうが、「異なるもの」を受け入れる懐の深さがない社会は、結局は多数派も暮らしづらい社会になる必然をどうして理解できないのだろうか。多数派であると信じている自分が少数者になったとき、絶対に後悔しない覚悟が、現在の「多数派」にあるとは到底思えない。

少数者の悲哀を同苦できるか。それがあるかどうかが、人間としても、社会としても、国としても、存在する価値を決めるものなのではないのか。

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