新聞の度量

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アメリカなどの新聞では、「Op&Ed」と呼ばれるページがある。Opinion & Editorial、つまり日本で言えば社説・解説のページに近いが、Op&Edの品質を誇っている新聞の多くは、優秀な外部の識者に刺激的な文章を書かせ、それがたとえ自社の方針や社論と違っても堂々と載せる点にある。

この点でももちろん定評あるNew York Timesはたとえばこうだ。

How China Fuels Myanmar’s Wars(Matthew Smith、2015年3月4日)

先日も書いたミャンマー・コーカン地方での紛争について、またそれ以外のミャンマー国内の民族紛争について、中国の関与を明確に指摘する寄稿だ。

たとえばこんな指摘がある。

Far from its oft-touted policy of noninterference, Beijing’s business interests in northern Myanmar, particularly in Kachin-dominant areas, have directly contributed to war and a cascade of abuse.

ざっくり訳:(中国が)よく口にする内政不干渉の政策とは程遠く、ミャンマー北部、特にカチン族が多い地域では、当地での紛争や虐待の連鎖に中国政府が直接的に関係している。

しかも具体例が複数あり、説得力もある。日本の新聞の「解説欄」に載るような、空理空論で明確な論理もなく、現場の情報もないような「識者」の提灯記事ではない。記者が本来は書くべき「記事」というか、ジャーナリストが書く「ジャーナル」をきちんと書き、それを提供している。

新聞の力量は、優秀な記者や社員をどれだけ抱え、どれだけいい記事を生産しているかということがもちろん大きいのだが、もう一つ重要な要素として、いかに優れた外部の人物をその傘のもとに入れられるかにもかかっている。この点で、池上彰のコラムを外してしまった朝日新聞の社長と編集幹部は、今までの記者人生が無になるような愚をさらしたといえる。

試しに、編集委員とか論説委員とかの肩書が付く記事のみを読んでみればいい。社内政治に勝ち残ったというだけの人物の文章がいかに空疎なことか。人脈や取材の幅広さがあるわけでもなく、生身の人間の苦しみや悲しみを、その背後にある大きな悪を書く文章のいかに少ないことか。

怒りや悲しみ、慈しみや温かみを忘れた自称記者の書く文章を載せるだけの新聞が、読者から共感を得られないのは自明のことだ。

 

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